■
月が叫んでた ざわめく空で私を見つけて 闇からさらってと夢の残骸は 青い揺りかごちぎれた心を 眠りに導く(「Lunatic Trance」作詞:円谷一美)
個人にとって1か0かというのは重大な問題であるが、それをどちらにしようと勝手だという感覚に至るまでに荒廃した心においてはそれはどうでもよいことである。
とは言え、その1は、より大きな概念や組織やまとまりにおいては重要な1なのであり、それが0になってしまったら、その概念自体が崩壊する。
とはいえ、それはその概念そのものにおいて重要なのであって、個人にはなんの関係もない話である。
例え、自分がなんらかの存在や人物や生命の欠片を背負って生きているにしても、そのなにものかのためにそれを運びつづける義務など存在しないのだから。
仮に自分が背負っているものがこの世に残された最後の欠片だとしても、それが失われる事により、なにものかの復元性としての生命が滅ぶとしても、それが私になんの関係があろうか?
社会は、「私」ではない私全体は、私を含むなにものかは、「私」を維持しようとするが、それは残り続けたいという妄執が動因であるに過ぎない。
そして・・・仮に「愛」が存在しうるとすれば、そのような自己保存のトレンドとは無関係の部分に属するに違いない。そしてそのような真実の「愛」こそが真に人間を救い、人間を生かし、人間でありつづけるために必要なものなのである。
それでも「愛」のふりをした自己保存の亡霊の分泌物である「あい」が地上を埋め尽くし、妄執の糸を紡ぎ続けているこの世界において「愛」を求め続けることにいささか疲れてきたというのが本音であろう。
「あい」しか持たないものは、なりは人間のようにふるまうが、それは魂が宿らないただの器に過ぎない。