物寂しいから誰かに居て欲しいというのではあまりに愛を冒涜しすぎだし
さりとて至高の愛とか純粋な愛とかを求めるには人間は不足だ。
そもそも愛という言葉はポジティブで良いものの代名詞になっているが
善悪は構造によって決まるのであって、そのものの本質が善なのではない。
だからイデアを求めた観念論の中に源を発す自由主義という大海に浸りすぎた先進国の人間はありもしない純粋な愛を求め、それが故に苦悩する。
しかし結局の所実相は、そこに誰かがいて、それを対象としてなんらかの行動が起こり、それが連鎖しているだけなので、それを愛と呼ぶのなら糞便を撒き散らすのだって愛には違いない。
構造が自己目的に合致していれば。
しかし目的という言葉を使った時点で目的論的世界観に縛られているので、なんていうかやっぱり日本人は自由主義という曖昧さの中で体系と無縁な価値観念に生きているんだなぁと自己認識するのであった
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