囚われの姫君

悲しみを 教えて

瞳を閉じていたら 悲しみも見えないと
ぬくもり知らずにいれば 傷つくこともないと
思い出せない優しい声を 弔う胸の海原
消え失せた過去から 誰かが呼んでいるの
悲しみをこの手に 取り戻す時はいつも
二度とは来ない今 あなたのことしか見えない


(「深海の孤独」 歌:桑島法子 歌詞:梶浦由記)


そもそもこういう事を考えた時点で、恋愛をする資格がないというか、恋愛に向いていないと思うのだが、私はよく「何故人は異性を愛するのか?」と言う思いを抱く。

しかし全然関係ないが抱くと書いてあるが、私の中では”いだく"と読んでいるが、実際に読む人には いだく か だく か分からない。だからと言って いだく とひらがなで書くと、イメージが捉えづらいというか、イメージが変わってしまう。正しいのはルビ付けだろうけど。

本当に関係ないなwww


で、私が女性を愛すると言う時と、男性を愛すると言う時では、その愛の間で異なるのは性的行為の有無以外に、なにかしらの違いがあるのだろうか?とも考える。


愛が、魂におけるものならば、男性を異性と同じく愛するのは疑問を抱くこともない。
同時に、同性に対する愛が、肉体的行為を伴わない行為である多くの場合、(個人的には同性愛でセックスが伴う時に疑問がある。それは間違った行動付けの結果だろうと)、男女の間に肉体的好意を伴わない愛の形が存在できることになる・・・はずなのだが・・・


個人的に自問すると、果たしてどうだろう。うーん結構理論も混乱してそうだしな。定義づけの段階で。
まぁ例えばどんなに友達だと思っていても、異性の場合、ふとした拍子に性的な想像が浮かばないことはないんだよな。これは私が男性だからで、女性にはないのかもしれないけど、そこらへんはわからない。


まぁ端的に、私が抱えていて、結論が見出せない命題があってそれが
「何故人は異性を愛するのか」でそこから演繹される「性的行為の欲求対象でしかない女性への愛は果たして自分にとって不可欠であるのか否か?」なのであり、その根底には「性的行為だけではない、【何か】を伴った愛情こそが、私にとって必要なものなのである」というとりあえずの結論があるわけで。


もし、 女性との愛が【何か】を伴うことが絶対にできないのなら、恋愛とか結婚とかやるのは馬鹿らしいと言うか
性的行為の欲求解消のためにお金出してそういう施設に行くか、セックスフレンドを用意しておくかなりして、【何か】は別口で探す方が理性的だよな。と思ったりもする。


そこら辺をまだ結論出せないと言うか模索中と言うか、割り切りができないのがとりあえずの自分の問題点な気がする。


最後に
「誰にも知られないって事はね、存在しないって事と同じなんだよ。だから誰かが私を覚えていてくれるだけで私はここに居られるの」っていう感じのLAINのセリフを置いておきます。


なんていうか、愛の鎖は空に飛び立つのを妨げるように思えるけれど、
その鎖が自分自身をこの世界につなぎとめているのだから


解脱して仏になりたいなら話は別ですがwww