それに俺は毫も「社会」に奉仕することなく、あえて己自身の道を行くことにした時、無論「社会」とは絶縁し、「社会」を諦めてしまったのではないか。そしてもし俺が、幸福であるために「世間の人たち」を必要としていたならば、今時分はかなり立派な商売人として、公益のために富を積んで、一般の羨望と尊敬とを博することを、仕事にしてはいなかったろうかと、俺は敢えて自問せずにはいられない。
然るに−然るに、俺の哲学的孤立が、俺をあまりに激しく悩ませるという事実、かつその孤立が、結局「幸福」についての俺の見解や、幸福だという俺の意識や俺の確信−それが揺らぐ事は、まさに疑いもなく全く不可能である−などと、どうしても一致しないという事実は、儼として存している。ときめれば、問題はそれで片付いてしまうが、やがてまたさらに、この独坐、この隠棲、この疎隔というものが、調子に外れている。どう考えても外れているように思われて、俺を恐ろしいほどむっつりさせてしまうような時間が来るのであった。
(「道化者」 トーマス・マン)


誰がどうやら言ってみた所で、幸福は「幸福であること」によってしかありえない。
幸福だから幸福なのであり、幸福の条件は確かに存在するが、それは普遍的な条件として共有されるものではないし、また必須でもない。
幸福の形は人それぞれなのは自明だが、たとえそうであったとしても、人が99.99%以上同じ遺伝子を持った同一群の生物である以上、大体の線において幸福になれない条件の方は存在する。
つまり幸福にさせようという努力は放棄するべきであるが、不幸にさせまいとする努力はするべきなのである。

親子や友人間での諍い、特に敏感ではあるが世間知に欠ける10代の若者が対象であった場合、【幸福の鋳型】に納めようとする権威者の行為は蓋し不幸になる場合が多いのである。

一方で真実義「周辺的人間」である所の荒野の狼においては、(一般的な意味での境界例においては自己を社会集団に帰属させたいという欲求をもっている時点で実は周辺的人間ではない)ほっぽっとくのが一番なのは言うまでもない。
彼が不幸になるのは彼自身が一番良く知っていて、不幸になると分かっているが、より不幸なことを回避するために敢えてその不幸を目指しているからである。
より不幸なこと、それは則ち、マナーからの逸脱である。
彼は社会的規範と自己規範とが相違しているからこそ荒野の狼なのであるからである