ここで知能分子となるものは、サラリーマンでもなければ文士でもない。まさに生産技術者でなければならないであろう。この生産技術者が基本的なインテリゲンチャなので、そこでは知能とは、人間の生産生活に直接結びついている処の技術的乃至は技能的知能の事でなくてはならぬ。インテリジェンスなるものは、テーヌさえそう見ているように、人間の感覚に直接連なる感能なのだ。例えば労働者が自分の社会階級上の利害関係を本能的に又分析的に感受する事が本来のインテリジェンスでなければならぬ。学校教育やただの知識や学殖がインテリジェンスでないのと同じように、文学者の非リアリスティックな認識や、サラリーマンの浮動的な感能は、別にインテリジェンスではないのだ。インテリジェンスとはいわば人間の実践的認識における本能的有能性のことだと云ってもいいだろう。それは人間の生産生活から離れては内容と意味とを失う心的能力なのだ。

(「日本イデオロギー論」戸坂潤)

結局の処、30年生きてきて何がわかったかといえば
馬鹿げた行いというものは、極まれに本当にその行為者の愚かさに起因する場合はあるけれども、大概の場合は観察者である私自身が切り取った事象データが行為者そのものとその行為が及ぶ範囲において間違っているということであった。
つまりほとんど場合は違う範囲、違う帰属集団、違う範囲、違う地域においてその行為者とその行為は合目的性において合理的な行為であるのであって、それが合理的に見えないというのは、その行為者が属する集団をマクロに捉えすぎていたり、ミクロに捕らえすぎていた、という事なのである。
例えば、営業職員が常にノルマをぎりぎり果たすくらいしか働かないのはその個人においては給料が上がらないというデメリットをもつが、営業職員集団においては、各人のノルマが増えないというメリットを持つ。
体外の企業においてノルマの達成は新たな達成不可能なノルマという問題を引き起こすのであり、そして企業というものはノルマを達成することによってもたらされる報酬よりもノルマを達成しない事による罰の方が大きいのだから、ノルマは達成しすぎない方がよいことになる。
分かりやすく云うとノルマを達成すると5点貰えて、達成しないと−20点というゲームがあるとする。
ノルマを達成した時の成績がノルマの130%を超えていたときには次のノルマが150%に設定され105%以下ならばノルマが変わらないゲームである。
この場合、ノルマを3回達成しても1回達成しないと損であるから、この職員が取る戦略は常にノルマギリギリの成績を上げることであるのは明白であろう。

昨今、朝三暮四を笑えなくなってきた。政府や企業が常に巧みなゲーム設定で労働者をよりやすい賃金で効率よく使おうとしているからだ。しかし真実の所、大体の人間において、愚かな選択はなされないのであり、どんなに手を尽くした所で、このようなまずい設定は生産性の低下を招く。だから国家や企業の重鎮はその施策を行うべきではないのだが・・・

彼らも愚かではないのに愚かな行為をしている。つまり彼らの集団にとってはそれは愚かな行為ではないということだ。
つまり日本や日本人がどのような劣悪な状況になったとしても彼らの利害には全く関係がないという事なのだろう。
彼らが愚かに見えるということは彼らを私達の仲間であるとみなしてしまっている我々こそが愚かなのである。