雪片は暮れ残った光の迷子のように、ちかちかした印象を見る人の眼に与えながら、悪戯者らしく散々飛び廻った元気にも似ず、降りたまった積雪の上に落ちるや否や、寒い薄紫の死を死んでしまう。ただ窓に来てあたる雪片だけがさらさらさらさらとささやかに音を立てるばかりで、他の全ての奴等は残らず唖だ。快活らしい白の唖の群れの舞―それは見る人を涙ぐませる

私は寂しさの余り筆をとめて窓の外を眺めてみた。そして君の事を思った。

(「生まれ出づる悩み」著:有島武郎

<冬期視聴予定>

僕はNTRが嫌いだ。
他人は所詮他人で、自己の所有には未来永劫ならないのだけれども、NTRというものは、その事を"事実"として読者たる僕の鼻先に突きつける。
全ては迷妄で、渇愛で、有漏なのだと四方八方から大音響で攻め立てる。
きっと"大人"は永遠を求める少年の僕を(っておっさんが言うのって自分でもキモイが)せせら笑いながら、刹那の愛を楽しむように唆すのだろう。
実際それは酷く魅力的だ。
そして生物として、人間として、至極真っ当で本筋の道なのだろう。
しかし、その事こそが僕の心に空虚な洞を穿つのだ。
酷い話で全く身体も自分の思い通りに動かないが、心もまた同じように動いてはくれない。
果たして自分の身体と精神の中で自由になる部分などあるのだろうか?

よく金持ちや権力者はなんでも出来ると勘違いしている人間がいるが、それは間違いだ。
彼らはシステムが金持ちや権力者に許している行為をなす事が出来るに過ぎない。
それはそれを持たない小市民には全能性の象徴のように思えるかもしれないが、当の本人たちにとっては思い通りにならない事路傍のホームレスと同じ事だろう。まるで自己の身体や心が自分の思い通りにはならず、身体が動くようにしか動かないように。

よしんば、彼らが足掻いて自由なるものを求めるのだとしても、その瞬間システムは彼らからその権力性を剥ぎ取り、その力能を奪ってしまう。
権力が定方向にしか動かないその権力そのものを守るために彼が属していた権力集団が、今度は自由を求める権力者から自己のシステムを防衛するのだ。

権力者もホームレスも同じように囚人たる"人の身"の中で、どのように生きていくのか?
この問いは意味があるのか。どのように生きるか選択できるのは自由人だけで、そのような存在は此岸には存在しないと言うのに。

全然関係ないが、やっと「真剣で私に恋しなさい!」をコンプリートした。
百代姉さんしか好みのキャラがいなかったので辛かったw