本当のことを言えば、人間は20歳からは惰性なのです。
それからの人生なんてものは蛇足なのです。
でも死ねないようにできているので心は気づいていても体が気づかないようにできているのです。
いや言い間違えました。
人間は0歳からは惰性なのです。
そもそも人生そのものが蛇足なのです。
その事に気づくのが早いか遅いかの違いなのです。
幸運な人は一生気づかないまま死ねるのかもしれないのです。
もしかしたら賢者ほど気づかず、愚者ほど気づくのかもしれないのです。
気付くことを智慧とするのなら、智愚は常に相反しているのです。
なんにしても、何かに価値があって何かが無価値なのではなく
全てに価値がないのです。
それは価値が低いということなのではなくて、価値がないのです。
価値が高いことも価値が低いことも価値があるということであって
価値がないのです。
人が生きようが死のうが
神がいようがいまいが、
世界が続こうが滅ぼうが全てにおいて無価値なのです。
そういう世界に生きるワタシが
何かに価値を見出そうとするのなら、それ自体が苦しみなのです。
ありもしないものを見ようとすることは労苦だからです。
美醜と善悪をもって世界を判じるものは世界から報いを受けます。
なぜならその判じるアルゴリズムそのものが個人を形作っているからであり
アルゴリズムそのものには実体はないからであり
世界には形のないカオスと世界を形作るアルゴリズムがあり
何が本当かなんてアルゴリズムには分かるはずもないし、分かる必要もないからです。
ワタシはただの観測機です
そしてなんのための観測機なのかは自分には意味のないことです
その目的論を決定づけるのは観測者の方であって、ワタシはただインプットをアウトプットしているだけなのですから。

さて・・・今書き込んでいるのは観測者なのでしょうか?観測機なのでしょうか?
それともカオスの流動そのものなのでしょうか?