蓮華って言うと那羅無双華(CV林原めぐみ)を思い出す私

「現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある・・・」


(「大衆の反逆」ホセ・オルテガ・イ・ガセト)


貴族とは地位でもなく身分でもなく、凡そ考えられる限りのその定義でもなく、則ち、精神である。
それは精神の崇高さを示す用語であり、またその用語を用いる意味を一番良く分かっていたのも貴族それ自身であった。
一方、貴族階級から資本家の時代への移行は取りも直さず貴族階級の没落、何よりもその精神の没落を招いたのであった。そして貴族は享楽的でその地位に安座し惰を貪る存在、社会的害悪として捉えられることになるのである。


現代では労働貴族という言葉を、労働組合がその力を用い、不正に王侯貴族のような生活をしている輩という意味合いで使うことが専らであるが、この用語を作り出した、ジョルジュ・ソレル自身はその単語を、あくまで労働者+精神的高貴の合成語として作り出したのであり、その意味は、資本家と対立しつつも協調し、技能からくる豊富な知識によって企業の政策に助言をする存在であった。その結果として、単なる利潤の追求機関であった会社組織を社会的利益をも内包できる組織に作り変えることを目的にしていたのである。
労働組合はその手段であって、目的ではない。目的はあくまで、資本を本当の意味で効率よく投資させるためであり、資本側、労働側共に社会の一員として幸福を享受することなのである。


翻って観れば、ソレルの目指した労働組合主義(アナルコ・サンディカリズム)は単なる暴力的対立、もしくは御用組合として発言権のない労働者と彼らを売って利己心を満たす組合幹部の発生という無残な現状を曝している。
これは、結局の所、人間存在が精神の崇高性を求めるというのは規定行為ではない、ということの証明であろう。


だが自分らが汚濁に塗れているからといって、清浄になろうとあがく人々まで泥沼に引き釣り込もうとするのはエゴでしかあるまい。それらの行為によって自らを犠牲に捧げうるような責務を果たしうる有用の人が年々少なくなりつつある。
だが、それらの事態を招いたのが自分達自身であるのにも拘らず、「誰か我々の窮乏を救い上げてくれる人はいないのか?」と嘆き伏すのを見ると居た堪れない気持ちになってくるのだ。


しかし、それでもなお、蓮華は泥の沼に根を伸ばし、清浄な花を咲かせるのだけれど。
泥の中に蓮華の種はある。しかし泥であろうとする限り泥は泥である。
蓮華の可能性があるからといって、泥が高貴になるわけではない。
高貴なのは蓮華のみなのである。