「そんな考えは思いもよらぬことです」とシッダールタは叫んだ。
「彼らがみんな教えに留まり、目標に達しますように!他人の生活を批判する資格は私にはありません。ひたすら自分のために、自分だけのために、私は批判し、選び、拒否せねばなりません。自我からの解脱を我々沙門は求めます、おお世尊よ。さてもし私があなたの弟子の一人になりましたら、私の自我が、ただ外見的に、ただまやかしに安心に達し、救われるだけで、実は生き続け、大きくなるようなことになりはしないか、と恐れます。そうなりましたら、御教えや、私の師事や、貴方に対する私の愛や、僧団などを私の自我にしたかもしれないからです!」
半ば微笑をたたえ、揺るがぬ明るさと親しさをもって、ゴータマは異郷の男の目を覗き込み、ほとんど目に見えない身振りで別れを告げた。
「御身は賢い、沙門よ」と世尊は言った。「御身は賢く語ることを心得ている、友よ。あまりに大きい賢明さを戒めよ!」
(「シッダールタ」ヘルマン・ヘッセ)

信仰を考える上で、経済上の三つの段階が存在すると私は考える。
1は生命維持に必要な物的リソースが常に欠乏し、その完全な充足が望めない状態。
2は生命維持に必要な最低限の物的リソースは確実に確保でき、尚且つ自己努力によってその量を増し、それによって物的充足を拡大することができるが飽和に達しない状態。
3は物的な充足が飽和に達するまでリソース獲得が容易である状態

最も狂信的な信仰状態が維持されるのは1であり、最も信仰が軽蔑され忌避されるのは2である。
3においては個人の資質、社会の持つ文化的差異によって信仰が選択されたり、刹那的な物的快楽主義が選択されたりする。

3の段階は現代においても富豪や、王侯貴族のクラスの人間だけが帰属するものであり、国家とか集団とかに現れるものではないので社会心理学の範疇から外れる。
凡その先進国において平均的な市民が属するのは主に2であり、先進国の下層、発展途上国のほぼ全層が属するのは1である。

とはいえ、何事にも例外というのがある。
致命的な精神的欠乏感を持ってしまったものがそれである。
その原因も多種多様である。
大概は、なんらかの回復が困難な程心に刻まれた恐怖や悲しみや怒りが原因になる。
だがここで語るのは私が属しているであろう準拠集団、つまり死に至る病に罹った人々のことである。
心理学に携わるものとして、私は哲学や心理学をやりたいと言う若い人にはこういうことにしている。「やめておきなさい。人間らしく生きたいなら」
哲学は思考は常にプリオンのように一たび一箇所でも、侵されると怒涛の如く全身に広がり、そこから回復することが出来ない。
その結果、その病に冒された人々は本来帰属すべき集団から切り離され、孤独なただひたすら孤独な道を進む事になろう。
そして足の出し方をどうやって動かすのか考えたとたんに歩くことができずもがき死んだムカデのように、泥炭の中で溺死することであろう。


おそらくは、その底から愚者を引き釣り出すことができるのは、なんらかの神聖性でしかない。
法理の中で苦しむものを法理で救うことはできない。法理内の存在を救うことができるのは法理外の存在だけだ。それが幻想だとしても、生命が死ではなく生きることを選択するものであるかぎり、その幻想はありつづけねばならないのだと思う。
幻想の綱が消えうせれば、泥炭の中で溺死するのだから。