あの月 あなたなら 悲しみを写さずに 
世の揺らぎ見つめて 嘆かず飛んでみる
(「月の繭」詞:井荻麟)


世の不幸を鑑みるに、その主因は王の不在にあると考える。
革命の世紀、市民の時代、民主主義、それら現代を支える理念が間違っているとは思わない。
が、一方において、現代の不幸はそれを隠れ蓑にした幻影の君主達によって為されている現状がある。
古代、もしくは中世、近代の王は、いかに暴虐であろうとも、部族の長であり、国家そのものであり、国家の責任を一身に負っていた。王の追放と共和制は、本来、全ての国民がその責務を分担するはずであったが、そうではなかった。
結局の所、フランス革命以降の現代がもたらしたのは、国家の解体(敢えてそう言おう)とその分子化であった。何者かが、消化を良くするためである。
現代に王はいないなら仕方ない。それは個々の市民の道徳的責任に帰すであろうから。
しかし君主達はいて、彼らは王としての名乗りをあげてはいない。
世界は彼らが支配するにもかかわらず、彼らは我らの長ではなく、我々の幸福にも不幸にも全く責任を負わない。
そして巧妙にその責務を飼い犬に負わせ、生贄に捧げるのである。
ならば我々はどうすべきか?
もはや辺境は存在しない。どこにいても影の君主の影響化である。
我々はその影の中で、影に浸されぬよう、愛と勇気と真理の炎で自身を照らさねばならないのである。