さよならはいわないよ
ずっとこれからも
戻ることのない日々
ココロを残して

(「ぼくらの時間」歌:eufonius 詞:逢瀬祭

雨で増水したり、高速で豚が逃げ出したり、津波で人が流されたり、砲弾で子供が吹っ飛んだりしてますが、ある意味これが私たちが住んでいる地球という星の日常な訳です。
日常なのだから受け入れるより他はないわけだけれども、何とかできる部分は何とかした方がいいのは確かですよね。
しかし、昨日NHKスペシャルで双弓類と単弓類の生存競争ものやってましたけど、撃ち滅ぼされ捕食されたくなかったら相手を食わねばならないのが自然界なんですよねぇ。
問題は、自然界では相手を滅ぼしてしまうと自分が飢えてしまうので、絶対的優位な生物さえも相手を全滅させることはあまりない、ってことですね。
人間の場合は、別に相手の人間を食うわけじゃなく、むしろ、いなくなれば、そこのリソースでより自分達の遺伝子を多く含む人間を増やすことができるので、全滅さすのが基本だっただけの話です。
現代はそういう意味では平和ですよね。ちょいと1000年も遡れば国ごと消滅がデフォなんだから、5〜6人死んで大騒ぎするのも、それだけ現代が平和だということです。
従って、戦争で大騒ぎするのも、人が死なないのがデフォルトであるという幻想を維持しつづけることが目的であって、本当に人が死ぬのがやばいってわけでもないんですよね。
アフリカなんか見てみたら、そのことがよくわかると思いますよ。まじで彼ら見てると遥か昔の人間存在をそのままの形で観察することが出来ますから。
それが悪いとはいいませんが、現実的に発展と豊かさが、人が死なないことによってしか維持できないのを考えると、幻想と言うのは大事なんだなぁと再確認するわけです。

その事を念頭に於いて、80〜90年代を考えてみると、伝統を壊そうとしてきた人々が、実はその伝統は幻想で、弱いもので、簡単に壊れるものだ!と言うことを気付いていなかった時期なんじゃないかと思うわけです。
昨今見られる価値の保守化傾向は、その結果現れた幻想の崩壊による社会の混乱に危機感を抱いたことによって起こる揺り返しのようなものだと思います。
なのに、まだテレビや漫画、雑誌などを作っている方々は反幻想的な事をよしとしているのが気になる所です。
純粋な力への渇望が色々な作品で垣間見られますが、そのようなものを受け入れるだけの強さがもう社会にはないということを理解した方がいいのではないかと思います。
確かに暴力は巧く使えば繁栄を約束するものであり、それを手に入れると言うことが重要なのは確かです。
しかし、実際にはそれを行使するということは、社会において地域が保ってきた連帯感を破壊することにつながります。
勝てばいい、負けるのが悪いというのなら、まずもってどんな手段を用いても勝たねばならないからです。
もちろん、実際には、暴力は支配者層により既に使われており、我々に行使され、我々から何ものかのリソースを知らないうちにもっていっていました。
が、そのことを知らしめても、被支配者が行う暴力の相手は支配者層ではなく、同じ被支配者のより弱いものたちへ行われるわけです。
何故なら暴力とは利益を得る手段であり、自分より強いものに振るわれたとしても、その効能は低いものになるからです。

まぁまとめると、安易な伝統の否定は、そこにあった社会基盤を破壊するもので、よりポジティブで実用的で効率のよい新社会を提示できないのならば行ってはならない、ってことだと思います。

私自身は伝統は好きではありませんし、専心する気持ちなどありません。
しかし、それは伝統そのものが明らかに非効率的で迷信じみた時代にあっていない意味のないものである限りであります。
そしてまぁ60%〜70%くらいは大体伝統には意味があります。
そういう伝統は守るべきです。
そして、伝統を破壊するのに理念がなく破壊する人たちはもう一度少ない脳味噌でその結果を考えて頂きたいものですね。