やがて朽ちたカラダを脱ぎ
ねぇ、ひとつになるまで 照らし続ける
Dear boy いつかあなたが目指した世界は
もう悲しみが消えた 未来でありますように

(「悠久の旅人」 詞:こだまさおり)

とはいえ、悲しみは生命体が生き抜くためのツールなので決して消えることはないけれど。

喜びも悲しみも、愛も憎しみも、「私」でない「わたし」が常に散離しようとする粒子を同じ配列に留めて置こうと何十億とせ積み重ね生み出してきたものだ。
だとすれば、そんな道具ごときで「わたし」ですらない「私」が生きるの死ぬの大騒ぎするなんて馬鹿げた事だ。

「わたし」は炭素高分子の集まりにしか過ぎないが、「私」は可能性のあり方でしかない。
「わたし」は常に遍在するが「私」は常にたゆとうている。
「ワタシ」は結実した「わたし」を通してしか感情を持てないが、別の「わたし」の中でも感情を持っている。
「ワタシ」は記憶を持つことが出来ない、というより、「私」そのものが認識だから、きっとどんな「わたし」も覚えていないだろう。
「わたし」がどんな人生を送った所で「私」は「わたし」が死ねば「わたし」であることはない。
「私」そのものが「私」ではなくなるのだから。
ただ永遠なのは「ワタシ」だけだが、とは言え「私」も「ワタシ」と「わたし」の鎹として、何らかの意味があったのだろうかと自問する。

「ワタシ」は「私」を見て、どう思っているんだろう?
そもそも見る器官がないのだがw

しかし・・・・「私」と「わたし」は中世だったら絶対山奥に隠遁してるよな・・・まじでw
今だと、テレビ東京千葉テレビが映る所じゃないととか言ってる時点で隠遁できねぇw