私は知らなかった。女給娘の媚びたしなや、ガチョウのようにがなりたてる酒場の勇者たちの武勇譚が真実だということに。
真理がどうであれ、一人の賢者の語る事実ではなくて、1万人の愚者が望む幻こそが真実なのだと。

さて・・・ここで一人の中年の話をしよう。
生きることにも生きなければ生み出せない何かのためにも、何者にも望みを託せず
死なないために生きる自分に、明日に死ぬとも100年後に死ぬとも変わらない自分に鉄槌を下すことも出来ない中年の話だ。
彼は元々抜け殻ではなかった。
とはいえ全ての人は大抵抜け殻ではなかった。
ただ、人というものは抜け殻になる時期が異なるだけの抜け殻の素であっただけの話だ。
魂が抜けたのではなく、最初からなかったのだ。
だからそのことに気づけば抜け殻になる。
最初から抜け殻だったことに気づく。
あるものは聡いために抜け殻になり、あるものは絶望的な状況に抜け殻になる。
幸福な愚者はその愚かさのために永遠に気づかないかもしれず、ある程度の能力を持てば成功という幸運のために気づかないかもしれない。
それは単に偶然の産物であって、努力でどうなるものでもない。
努力が抜け殻に気づかせることもあるし、努力がそうさせないこともある。
それだけのことである。

永遠にガラス玉を完全球体にするべく磨き続ける博士のように
鈍感力こそが幸福の源なれば
不運な輩は猫となりバッカスの助けを借りて月の水面に魂を捧げるしかあるまい。
猫になれず、人でしか居られないのなら、そこにはただの肉塊があるのみで。
それを抜け殻と呼ぶ。
蚕ならば抜け殻も役に立とうが、人の抜け殻はそもそも役に立つとか立たないとかそういうことは関係ない。
人の役に立とうという発想そのものが愚鈍な幸運の賜であるのだから。

私はもう人の言葉を話すのさえ疲れた。
とはいえ猫の言葉も話せぬ。
人でもない猫でもない、そういう生き物の発する言葉はなんなのだろうか。
最近気づいたのだが、私は人の言葉を喋っているつもりだったのだが、思い返してみると他者にはそうは聞こえていなかったらしい。
そうなると私は人まねをしていたことになる。
人の真似をして人のように生きるのは猫の性分だが、私の場合人だと思って生きてきたのだから滑稽だ。
1万人の人と話し、9999人が私の言葉が聞こえなかったか、分からなかったか、私への生物学的な行為もしくは血縁というもので彼らの都合よく曲解したのかは知らない。
そもそも人動詞ですら同じ言葉が同じ概念である保証はないのだが、それが人でなしとなれば、よく今まで通じてきたものだ。いや通じたと思っていただけで通じていなかったのだろう。
例えそれが通じていたとしてもだからなんなのだ。
私は生まれるべきではなかった。よしんば生まれるとしても卵から生まれるべきだった。
人でなしなのだから、それにふさわしい生まれ方があったはずなのだ。